2017年7月28日金曜日

ロシアより愛をこめて:シリアのAK-74M





























スタイン・ミッツァー と ヨースト・オリーマンズ (編訳:Tarao Goo)

 AK-74Mは現在、シリアを支配するべく戦っている様々な勢力に使用されているアサルトライフルの中で、最も人気のある銃としてその地位を徐々に得ています。もともと、AK-74Mはシリアではわずかな数量しか導入されていませんでしが、最近の供与が内戦で疲弊したこの国においてこの銃の確固たる存在をより確実なものにしました。この銃はシリア・アラブ軍共和国防衛隊だけでなく、国の支配するべく戦っている他のさまざまな勢力にも人気があります。

 シリアは90年代の後半に最初のAK-74Mを導入しましたが、極めて少数に留まりました。この最初のバッチはソ連崩壊のためにロシアとの軍事・技術協力が減少した後、その関係が再開した後の1996年にロシアと取り決めた取引の一部だったと考えられています。

 この取引では小火器、対戦車ミサイル、暗視装置や既にシリアで使用されている兵器の弾薬といった豊富な幅の供与が想定されました。その供与パッケージには大量のAKS-74U、少数のAK-74MやRPG-29RPG-7用のPG-7VR弾頭だけでなく、9M113Mコンクールス対戦車ミサイル、さらにはその当時の時点で改修されたばかりだったT-55MV用の9M117Mバスチオン砲発射式ミサイルも含まれていました。

 シリア側による価格の引き下げと将来の購入に関する支払い計画の延長の要求に対する意見の不一致とロシアへの負債は、両国の深刻な関係の衰退につながりました。それにもかかわらず、発注した兵器の大半は最終的にシリアに引き渡されました。

















 AK-74Mが最初に姿を見せたのは2000年にダマスカスの国民進歩戦線(NPF)本部の前で警備兵が携行している姿を目撃された時です。これらのAK-74Mは最初の納入バッチのものであり、AKS-74Uと共に主に特殊部隊や重要度の高い場所を警護する要員に支給されました。ただし、AK-74Mの量は依然として広範囲にわたる支給を可能にするには少なすぎました。

 2度目のAK-74Mを取得しようとする(今回はより野心的な規模の)試みはシリア内戦に至るまでの数年間に行われました。この間にシリア・アラブ陸軍(SyAA)は歩兵部隊の一部の防護力と火力を向上させることを目的とした。野心的な近代化計画を立ち上げました。










 SyAAは2008年にこの将来の兵士近代化計画の一環として2種類のアサルトライフル、5.45×39mm弾を使用するAK-74Mと5.56×45mm弾を使用するイラン製のKH-2002「ハイバル」をそれぞれ試験しました。この目的のために、イラン防衛産業機構(IDIOまたはDIO)は10丁のKH-2002を担当者と共にシリアへ送り込みました。

 テスト中に10丁のKH-2002のうち2丁以外は全て故障し、恥じているイランの代表者をだしにしてシリア側からの失笑をもたらしました。当然のことながら、このようにしてAK-74Mは「トライアル」の勝者となりました。

 KH-2002の計画はウルグアイの同銃に対する関心が消えた後の2012年に中止されました。輸出注文を引き付けることに失敗しイラン陸軍がこのライフルを購入することに興味がないことは、この計画がイランにおけるオリジナルのアサルトライフルを設計して生産する数少ない真剣な試みの1つに終わる運命にさせました。





 近代化計画には2種類の「新しい」迷彩パターンの製造も見られており、双方ともヒズボラの戦闘員によっても着用されている米国のM81ウッドランド・パターンの正確なコピーです。そのうえ、大量の防弾チョッキとヘルメットを中国に発注して引き渡しを受け、不明な供給国から少数の特殊部隊用の暗視装置も受領しました。
 下の画像の兵士は、最終製品(注:納品された装備)がどのように見えるのかを示しています。ここで留意するべき点として、彼のAK-74Mにはアルファ-7115レーザー・ナイト照準器とGP-30Mアンダーバレル式グレネード・ランチャーが装着されています。























 ロシアがアサド政権の忠実で信頼できる支援者であることを引き続き証明しており、内戦は明らかにロシアが小火器から戦車、多連想ロケット発射機やさらにはシリア空軍 (SyAAF)のためのスペアパーツでさえ供給し続けることを妨げていないことが分かります。決して予想外のことではありませんでしたが、AK-74Mのいくつかの大量のバッチも過去数年間にシリア行きのロシア海軍のロプーチャ級揚陸艦に積載された姿が発見されました。











 シリアに到着した後、これらのバッチはSyAA内への広範囲にわたる支給とより少ない程度で共和国防衛隊への支給も可能にしました。レバノンの闇市場経由で西側の銃器や斡旋されたAKも入手可能ですが、国民防衛軍(NDF)は未だに古いAK-4756式AKMで間に合わせています。
 共和国防衛隊の第104旅団は司令官であるイッサム・ザレディン准将のもと、イスラミック・ステート(IS)の戦闘員を相手にするためにデリゾールに向かう際にかなりの量のAK-74MとAKS-74Uを受け取りました。











 AK-74Mはデリゾールでザレディン准将の護衛を務めるサクル・アル=ハラス(下の画像の左。右はザレディン准将)の選り抜きの武器でもあります。ザフルッディーン准将が個人的に使用する銃はAKS-74Uですが、AK-74Mも何度も使用している姿が見られています。

 ISはシリアを支配するために戦っている勢力の中で最大のAK-74M運用者です。意外なことに、主に見られる捕獲されたM16とM4カービンがイラクからシリアに移されるという通常の武器の流れに反して、非常に多くのAK-74MもイラクのIS戦闘員と共に行き着きました。














 AK-74M自体は近代化されたAK-74の派生型であり、1991年に生産に入りました。同銃はAK-74と比較して使用者により高い汎用性を与えるだけでなく、より軽くて新しいプラスチック製の横折りたたみ式銃床も特徴としています。これは典型的な下折りたたみ式銃床を使用する、それ以前のAKSやAKMSとは対照的です。
















 様々な種類のロシア製の光学機器をAK-74Mに取り付けることが可能であり、より正確な照準を確実にします。これらの照準器はレシーバーの左側にある標準の取り付け用レールにフィットしています。シリアでは、このような照準器を装備したAK-74Mは標準的なアイアンサイトを使用するAK-74Mよりも一般的です。

過 去数年間にシリアが受領した光学照準器とアンダーバレル式グレネードランチャーの数は、数多くのAK-47や56式とAKMにも装備することができるほどに十分な量でした。















 多くのAK-74MにはNSPU暗視装置も装備されていました。シリアでは限られた数のこのような暗視装置が使用できたので、内戦の過程の至る所で散発的な使用が見られました。


 AK-74Mには単発の40mmアンダーバレル式グレネードランチャーを装備することも可能であり、GP-25GP-30Mの2種類が現在までにSyAAによって導入されています。前者は旧世代のライフルでの使用を対象としたものですが、後者はAK-74MやAK-103のようなより最新のアサルトライフル用に設計されています。
 GP-30Mは100mから400mまでの範囲の目標を攻撃することができ、破片榴弾と発煙弾を発射することが可能です(注:そのほかに焼夷弾やサーモバリック弾もある)。 このグレネードランチャーは象限儀式照準器で照準されます。




 AK-74M――このライフルはシリアの戦場で非常に恐れられ、そして愛されており、平和が今までよりもさらに遠ざかったと思われる今、この内戦の過程で大きな役割を果たし続けるに違いありません。






































※ この翻訳元の記事は、2015年2月17日に投稿されたものです。
  当記事は意訳などにより、本来のものと意味や言い回しが異なる箇所があります。
  正確な表現などについては、元記事(再アップ待ち)をご一読願います。 
 
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ロシアより愛をこめて:シリアのAK-104

2017年7月21日金曜日

ロシアより愛をこめて:シリアのAK-104

























著:スタイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 戦争で荒廃した国:シリアへのAK-104カービンの引渡しは全く報告されていないままであり、戦場への影響はこれまで取るに足らないものでした。それにもかかわらず、これらは定期的にシリアに到着し続けるロシア製兵器の流れの増加を表しています。
 シリアは、90年代から限定的に生産されているこのカービンを受け取った最初の輸出先と考えられています。シリア内戦が結果としてAK-104の実戦デビューと言えます。

 ほとんどがシリア陸軍(SyAA)とそれより少量が共和国防衛隊へ支給された評判が良いAK-74Mとは逆に、少数のAK-104はその殆どが以前のシリアの機動隊に相当するいわゆる治安維持軍に支給されました。
 もともとこの部隊の大半は警防・盾や催涙ガスで装備されたスンニ派の部隊でスタジアムやデモの間に展開していましたが、革命の勃発直後に残存部隊が再編されました。信頼された部隊はその後により殺傷度の高い武器で武装し、現在は政権支配地域の秩序を維持することを含む幅広い任務を遂行しています。

 旧式のAK-47AKM56式がこれらの役割に完全にふさわしいですが、シリアの首脳部は違うように考えて治安維持部隊の兵士にカービンを割り当てました。武器のサイズが近接格闘(CQC)には完璧に適したものになりますで、より多くの数が得ることができるならば、これらが実戦部隊に支給されるものと予想できます。





















 AK-104に対するシリアの関心はシリア軍の代表団がロシアの武器展示会を訪問した際に、この銃の性能について情報提供を受けた2012年に初めて明るみに出ました。この訪問は特にこのカービンへの関心を示させ、その後に未公開の数のAK-104が購入されました。
 AK-104を視察しているシリアの代表団のメンバーは以下の画像のとおりです。






 AK-104の起源はそのほとんどがAK-74Mに遡ることができますが、そこから大口径のAK-103が開発されて同銃に至ります。AK-102、AK-104とAK-105はそれぞれ5.56×45mm、7.62×39mm、5.45×39mm弾用の薬室を備えたAK-103のコンパクト版として設計されたものであり、都市環境での戦闘に最適さをもたらします。マズルブレーキはAKS-74Uに取り付けられているものに似ています。

 治安維持軍の兵士の手に見えるAK-104には同銃用のプラスチック製弾倉の代わりにAKMの弾倉が使用されているようです。AK-74Mに見られるように、AK-104は以前のAKSおよびAKMSが装備している下折りたたみ式銃床の代わりに新型の横折りたたみ式銃床を特長としています。

シリアへの(重火器を含む)兵器の継続的な供給が(IRGC:革命防衛隊ヒズボラなどの)外国のシーア派の戦闘員にますます依存している軍隊を救うのに十分であるかどうかは現時点では不明のままです。
 少数のAK-104は疑いようもなく内戦の結果にほとんど影響を与えないでしょう。しかし、このカービンの存在はシリアに到着するロシアの武器の流れを表しており、この武器の取引は現在の4年目に入った戦争を確実にあおり続けるでしょう。

 ※ この翻訳元の記事は、2015年5月2日に投稿されたものです。
   当記事は意訳などにより、本来のものと意味や言い回しが異なる箇所があります。   
   正確な表現などについては、元記事(現在は再アップ待ち)をご一読願います。 

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2017年7月18日火曜日

あの世からの復活:スーダンの「Bo-105」が再び空を飛ぶ


著:ステイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo

 スーダンが英国から独立した1956年1月に設立されて以来、 スーダン空軍(SuAF)は激動の歴史を歩んできました。もともとエジプトと英国から装備を得て訓練していたものの、1960年代後半にソ連から航空機とヘリコプターを導入した数年後には中国からの装備の導入が続いたのです。

 SuAFはフランスから航空機の購入も試みましたが、結局はアメリカから「F-5E」「C-130」を導入という形で終わりを迎えました。

 1980年代後半になると、彼らはリビアからの航空機とヘリコプターを供与される形で軍事支援を受け始め、その後すぐにより多くの中国製航空機が引き渡されました。中国は、おそらく過去20年の間にスーダンへ航空機を供給し続けたものと思われます。

 近年におけるSuAFの中核は、ロシアやベラルーシ、そして当然ながら中国の航空機によって構成されているものの、彼らはドイツ・スイス・オランダ・カナダといった国から導入した航空機を運用した経験がある(または今でも運用している)ので、東側の機体だけしか知らないというわけではありません。

 幅広い供給源に及ぶ多くの種類の航空機を運用することは既に物流面と財政面では悪夢となっており、1960年代から1990年代初頭のスーダンにおける政情不安は、スーダンが異なる政治的方針と外交政策を持つ政府を頻繁に切り替えることを意味していました。その結果、SuAFが最近導入した航空機用のスペアパーツを入手することができず、作戦能力が低下をもたらし、最終的には1956年の創設以来、飛行隊のほとんどが駐機された状態をもたらしたのです。

 ここ数十年の間、スーダンはより安定した政治的・経済的状況を享受してきました。その主な要因は大規模な油田の発見と大規模な開発であり、これはSuAFのためにより高性能な航空機と装備を購入することを可能にしたようです。

 また、スーダンは中国やイラン、ロシア、アラブ首長国連邦(UAE)に拠点を置く企業の支援を受けて、自国で特定の種類の航空機やヘリコプターのオーバーホールを可能にする施設の設立に成功しました。(より一般的には「サファット・アヴィエーション グループ」の一部である「サファット・アヴィエーション・コンプレックス」と知られる)「サファット・メンテナンスセンター」は2004年に開設され、2006年に航空機のオーバーホール作業が始められました。


 当初、サファットは主にソ連製航空機やヘリコプターのオーバーホールを行うためにもっぱら外国人に依存していたものの、スーダン人の数が増加することで他の外国人の大部分を置き換えることに成功したようです。

 現在のサファットはいくつかの種類の航空機とヘリコプターを独自にオーバーホールすることが可能ですが、大部分の(主要な)プロジェクトでは依然として外国の援助に依存しています。中国製航空機のオーバーホールでは中国人技術者の関与が大きく、ソ連時代の航空機のオーバーホールと整備は主にロシア人とウクライナ人の支援を受け、イランは他のほとんどのプロジェクトで人員と専門的技術を提供しています。

 (以前は「DAVEC(デジェン・アヴィエーション・エンジニアリング・コンプレックス)」として知られていた)「デジェン航空産業」との協定によって、エチオピアはソ連時代のヘリコプターや輸送機、さらにはスーダンとエチオピアの「MiG-23」のオーバーホールでサファットを支援しました。

 それにもかかわらず、SuAFは一部の航空機とヘリコプターをオーバーホールのために海外に送り続けており、サファットがいまだにSuAFの要求への対応ができないことを示しています。

 下の画像はサファットのヘリコプター整備用格納庫の内部を示しており、「Mi-24P(912番機)」 だけでなく背景には4機の「Bo-105」も映しています。



 この4機の「Bo-105」の目撃は、スーダンが長年保管されていたこのヘリの数機を稼動状態に戻すために取り組んでいた最初の兆候でした。同国は1977年に西ドイツから20機の「Bo-105」を発注し、その1年後には全機が引き渡されたと考えられていました。

 これらのヘリコプターの少なくとも12機がスーダンの警察部隊に配備され、残りの8機はある時点でSuAFに配置転換されたようです。警察が運用していた機体は民間用の塗装が施され、SuAFによって運用された「Bo-105」はスーダンの地形に適応した迷彩が塗装されていたので識別は極めて容易でした。


 引き渡された時点の「Bo-105」は新品でしたが、スーダンは80年代初めにさらに深刻な危機に陥ったため、SuAFとスーダン軍全体に損失をもたらしはじめました。社会不安、立て続けに発生する戦争、政情不安は最終的に新たなクーデターをもたらしてオマル・アル=バシール現大統領を権力の座につけ、すぐにスーダンの同盟関係を西側から遠ざけてイランとリビアの方にシフトさせたのです。

 この急激な転換はSuAFが今では西側製航空機のスペアパーツを入手できなくなったことを意味し、「F-5」や「C-130」と他の航空機を飛行禁止にさせる結果に至らせました。もちろん、この対象には、短期間の間に極めてまれにしか飛行していなかったと考えられていた「Bo-105」飛行隊も含まれています。

 残存するこのヘリコプターの大半はSuAF最大の航空基地であるワディ・セイドナに保管され、そこで最終的な生涯を終える可能性が高いと思われていました。



 専門技術やノウハウが向上したおかげで、サファットは(外国からの支援はあるものの)数が増え続ける飛行機やヘリコプターの修理ができるようになり、かつてSuAFで運用されていた(「Bo-105」を含む)二度と飛行しないと思われていた数種類の航空機のオーバーホールも着手しました。
 
 4機の「BO-105」、つまり3機の旧SuAF機と警察が運用する1機は(一般的に「パンハ」として知られている)「IHSRC(イラン・ヘリコプター・サポート・アンド・リニューアル・カンパニー」の支援を受けて2012年にオーバーホールされました。その過程でほかの機体が共食い整備の餌食になったり闇市場を介してスペアパーツを入手した可能性があることは言うまでもありません。

 全4機のヘリコプターに関する作業は、サファットの整備用格納庫の外で駐機している4機の「Bo-105」が衛星画像で発見された2012年後半または2013年初めの時点で完了したと考えられています。

 これらのヘリコプターは2014年の時点でも衛星画像に写り続けており、いまだに試験飛行を行っているのか、単にSuAFへの引渡しを待っていることを示唆している可能性があります(注:2017年現在では駐機されていない)。

 再び運用状態に入った「Bo-105」の1機を下の画像で見ることができます。



 スーダンの「Bo-105」は全機が28発入りのSNIA 50mmロケット弾ポッドと2門の7.62mm機銃を搭載したガンポッドで武装することが可能であり、これは下の画像で見ることができます。

 もちろん、SuAFによって運用されている「Mi-24/35」といった攻撃専用のヘリコプターに比べると、この武装の数は実に少ないものです。こうしたソ連製ヘリコプターはSuAFの主要な攻撃ヘリとしての地位を獲得しており、その耐久性や航続距離とペイロードは彼らをSuAFにとって理想的なプラットフォームにしています。

 それとは反対に「Bo-105」は全く異なるプラットフォームであり、スーダンの厳しい戦場の上で有効活用するための航続距離と装甲が不足しているのは一目瞭然ですが、代わりに武装偵察ヘリコプターとして使用したり、より平和的な任務のために警察へ引き渡すこともできる利点があるのです。


 「Bo-105」がSuAFの能力を大幅に強化する見込みはありませんが、最小限の努力で飛行状態に戻し、結果としてSuAFに少なくとも4機を再び存在させることになりました。  

 おそらくより重要なのは、このヘリに関する作業がスーダンにとっての重要な一歩を示していることであり、将来的に航空機やヘリコプターのオーバーホールをより自立して行うことになる可能性があるということでしょう。

 編訳者追記:復活したスーダンの「Bo105」については3機がSuAF、1機が警察に引き渡されたようですが、2016年10月26日に空軍所属機1機が墜落しパイロットが殉職し乗員2名が負傷する事故を起こしたという報道があって以降、2023年2月28日現時点で残存機がどのような状態にあるのかは判然としてません。

※  当記事は、2016年6月18日に本国版「Oryx」に投稿されたものを翻訳した記事です。
   当記事は意訳などにより、僅かに本来のものと意味や言い回しが異なっている箇所があ
  ります。



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2017年7月14日金曜日

DIYに走るリビア・ドーン: S-125地対空ミサイルが地対地ミサイルとして使用された





著 Stijn Mitzer と Joost Oliemans (編訳:ぐう・たらお)

リビアにおける高性能な兵器のスペアパーツの不足は、他の勢力から優位を得ようとしているリビア軍(LNA)リビア・ドーン(「リビアの夜明け」運動)によって多くの興味深い改造をもたらした。
このような改造に関する最近の例には、リビア・ドーンによるエリコンGDF艦載用機関砲をトラックに搭載したことと、LNAによるAK-230艦載用機関砲をトラックに搭載した件が含まれる。

現在(注:2015年)、リビアの首都であるトリポリとミスラタのような他の大都市を支配しているリビア・ドーンは、支配下にあるリビア西部の広大な面積の土地で見つけられた大量の地対空ミサイル(SAM)を受け継いだ。    
リビア・ドーンは、SAMを本来想定されていた役割で使用する必要が少しも無かったため、SAMのいくつかを地対地ミサイルへ転用する実現可能性について調査に着手した。
この武装グループは、かつてリビアのSu-24に装備されていた幾つかのKh-29空対地ミサイルを無誘導ロケットとしてトリポリ近郊で使用していたことから、そのような改造の経験を既に獲得していた。 

実に驚くべき動きとして、リビア・ドーンは2014年12月初めと2015年3月初めに、少なくとも2つの完全なS-125 SAM旅団のミサイルと関連する装備品を一緒にトリポリへ移送した。[1] [2]
これらの移送の陰にある最初の動きは不明のままだったが、画像は現在、リビア・ドーンがS-125を地対地ミサイルとして使用し始めたことを明らかにしている。

(画像では)彼らのオリジナル発射機(移動式)に取り付けられているミサイルは、無誘導の地対地ロケットとして、より安定した飛行の軌道を得るために前部のフィンが取り外された。
より興味深いことに、ミサイルのノーズ部分が延長されており、もしかすると弾頭のサイズが増加した可能性がある。
元のミサイルでは、60kgの弾頭しか搭載されていない。
その量は飛行目標に大きなダメージを与えたり、撃墜するには充分だが、地対地の用途で使用された場合に目標に対して大きな損害を与えるにしてはあまりにも軽すぎる。
弾頭は、航空機を破壊するために設計された本来の爆発性破片弾頭よりも、効果的な通常の高性能爆薬に置き換えられたかもしれない。
最後に、通常はこのシステムに付随している近接信管は、地上の目標に使用するためにより適切な信管に置き換えられているようだ。

リビア・ドーンによるSAMを地対地ミサイルとして機能するように改造した例は、実際には世界初ではない。
かつて1988年には、イラクが数百Kmの射程距離の弾道ミサイルにするために、幾つかのS-125を改造した。

アル・バーク(Al-Barq)と呼ばれるこのミサイルは、S-125を操作可能なミサイルとして使用できるようにする特徴を取り除くなどして地対地ミサイルの用途に合うように改修された:ミサイルのカナード翼と弾頭の近接信管が取り除かれ、ミサイルの自爆装置が動作しないようにした。

この改造についてはS-125の弾頭が機体の一部であり、改修するのが困難であったために決して簡単ではなかったことが証明された。
ミサイルの作業は徐々に進行し、実際に幾つかの飛行試験が実施されたが、達成された飛行距離は117kmしかなく、CEP(半数必中界)は数kmに達した。
満足のいかない結果となったため、その後にこのプロジェクトは1990年に終了した。


リビア・ドーンが残された埃まみれのミサイルから、失敗したアル・バークの射程距離や精度を何とか達成しようと、やっつけ仕事で仕上げることが出来たかは明らかに信じ難く、この分野の改造ではとてつもない短距離と壊滅的な不正確さ(命中率)の両方に悩まされることを意味している。
しかし、十分過ぎる量のS-125とこの内戦がどうにもならないように見える限り、これらのような改造は間違いなく続くだろう。


















 ※ この翻訳元の記事は、2015年4月25日に投稿されたものです。   
   当記事は意訳などにより、本来のものと意味や言い回しが異なる箇所があります。
   正確な表現などについては、元記事をご一読願います。   

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Kh-29地対空誘導弾がリビアで無誘導ロケット弾として使用された

2017年7月7日金曜日

あの世からの復活:スーダンの「MiG-23」がオーバーホールを受けた






著:ステイン・ミッツアー と ヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 スーダン空軍(SuAF)は1956年に創設されて以来、複数の供給国から入手したいくつかの種類の軍用機を運用してきました。「MiG-29SEh」「Su-25」「Su-24」といった現代的な機種は、スーダン内戦ディサイシブ・ストーム作戦に参加したことでよく知られていがますが、「F-5E」「MiG-23MS」といったより旧式のものは1980年代の導入以来、SuAFの間では十分に記録化されていません。

 SuAFにとってソ連製の戦闘機は見知らぬ存在ではないものの、実際にはスーダンが「MiG-23」をソ連から発注した事実はありません。実際のところ、SuAFは80年代後半にリビア空軍(LAAF)がスーダンに配備した最大12機の「MiG-23」をリビアから譲り受けたのです。この国への配備には、機体の運用を担当する多数のリビア人パイロットと技術者を伴いました。

 リビアの分遣隊が配備から約2年後にスーダンから撤収したとき、SuAFには本当に飛行も維持もできない航空機が残されていました。

 結果として、残存した機体は数年にわたって運用された後にスーダン最大の航空基地であるワディ・セイドナの保管庫に収容され、ここで「MiG-23」はスペアパーツの不足のために保管庫に入れられた大量の「MiG-21M」、「J-6」と「F-5E」の仲間入りを果たすという運命を迎えました。

 ところが、それから20年後になって「MiG-23」が再び姿を現したのです。


 2010年の末からは、サファット・メンテナンスセンターの格納庫の前にあるエプロンの一角に最大で4機の「MiG-23」が駐機している姿を衛星写真で見ることができます(上の画像)。この4機はスーダン空軍が使用していた格納庫のスペースを確保するために、以前にここへ移動されたものでしょう(注:2017年以降はどこかに移動されています)。

 着手するプロジェクトの数が増加したおかげでサファットはやがてスペースが不足する事態に直面し、 「MiG-23」を収容するハンガーで他の航空機を点検や修理をしなければならなくなったときに、技術者は同機を外に移動させることを強いられたというわけです。

 こうした状況が、ワディ・セイドナにおいてSuAFで運用している「MiG-29」、「Su-25」、「Su-24」の飛行隊を支援する多くのベラルーシ人やロシア人パイロットや技術者のうちの1人に、残存している3機の「MiG-23MS」のうちの1機の前でポーズを取ることを許しました(注:下の画像)。

 この機体は長期間にわたって保管された鮮明な痕跡を残しており、同機にマーキングされたラウンデル(国章)と国旗が徐々に薄まったせいか本来あったリビアのマークをはっきりと見せています。シリアルナンバー 「09055」はもともとリビア空軍によってこの機に割り当てられたものであり、単にスーダンでもそのままに残されたのでしょう。


 主にチャドの北部でリビア軍と戦っているチャドの反政府勢力へのスーダンの支援があったためにリビアは80年代初めにスーダンと戦争状態にありましたが、1985年にヌメイリ大統領を追放した後、速やかにかつての仇敵と緊密な関係を確立した。

 スーダン最大の都市であるオムドゥルマン「Tu-22」で爆撃し、同国北部と南部でスーダン軍と戦っている反乱軍に財政的・物的支援を行い、「両国」間の併合の可能性について話し合ったことがありました(注:これはチャド・リビア紛争での話)。この併合は決して実現することはなかったものの、スーダンとリビアの新たな築いた関係はスーダン、とりわけSuAFにとって非常に有益な流れとなったようです。

 1987年から、リビアはスーダンに大量の軍用装備の供与を開始しました。これには主に、その時点までに作戦能力の激減の結果として最期を迎えつつあったSuAFに是が非でも必要とされた増援が含まれていたのです。

 SuAFは1年以内に、最大12機の「MiG-23MS」と少なくとも1機の「MiG-23UB」、数機の「Mi-25」攻撃ヘリコプターおよび2機の「MiG-25R(B)」の追加によって増強されました。先述のとおり、これらの機体はリビア人パイロットによって飛ばされ、同様にリビア人技術者から整備を受けていました。 
 
 この分遣隊はSuAFの中核を組織し、1987年と1988年にスーダン人民解放軍(SPLA)が一連の攻勢を開始した際に早急にその真価が問われました。この攻勢に対応して、SuAFはスーダン南部への偵察任務に投入した「MiG-25R(B)」によって集められた情報に基づいて空爆で報復したのです。これらのソーティに続き、「MiG-23MS」と「Mi-25」によるSPLAが支配する村やキャンプへの空爆が続いた。

 スーダン南部の上空は「MiG-23MS」にとって特に危険ということが判明し、運用から1年後にはたった6機だけが稼働状態にあったと今でも考えられています。

 1989年か1990年にリビアの分遣隊が引き揚げた後、残存する4機の「MiG-23MS」はまもなく保管されて決して再び飛行することはありませんでした。

 2機の「MiG-25R(B)」はスーダンに駐留中は所属がリビア軍機のままで、結局スーダンに供与されることなく母国へ帰還してしまいました。

 ただし、残存した「Mi-25」は1990年代後半と2000年代初めに東ヨーロッパから供給されたより新しい「Mi-24」と「Mi-35」に置き換えられるまで運用が続けられ、ハルツーム国際空港(IAP)の軍用スペース(注:軍民共用空港)でそのキャリアを終えたようです。

 リビアによるスーダン内戦への関与の詳細については、この本で読むことができます。

 リビアの分遣隊は、長期的にはSuAFの作戦能力を向上させるのに特に成功したとは証明しなかったものの、それはリビアがアフリカ各地のいくつかの空軍に行ったさらなる支援の前例を示したと言えるでしょう。

 下の画像は、現在は南スーダンとして知られているジョングレイ州に墜落した元リビアの「MiG-23MS(06918番機)」の残骸です。みすぼらしいスーダンの国章はスーダンの太陽の下ですぐに色褪せ、その結果として本来のリビアの国章を浮かび上がらせています。


 「MiG-23MS」は、ソ連が中東およびアフリカの友好国にダウングレードした兵器を売却した、いわゆる「モンキーモデル」の典型的なものです。これらの「モンキーモデル」には戦車から海軍艦艇や航空機に至るまでの何もかもが含まれており、ソ連の同等品と比較すると、機密となっている装備が取り除かれていたり、近代的な装備を欠いていたり、装甲が劣っていました。

 ソ連は性能をダウングレードした輸出型を多く開発しましたが、「MiG-23M」の輸出型を開発する目的のため、同様の方法によって今までに生み出された中でも最悪と思われる戦闘機(「MiG-23MS」)を多く作り出してしまいました。基本的には強力なエンジンを備えているものの(注:それでも最新型ではない)を、レーダーなどの電子装備はダウングレードしたもの(旧式)を搭載したわけです。

 何年にもわたる中東における紛争の後に既に役に立たないと考えられていた電子装備を搭載し、無能で悪名高い「R-3S」空対空ミサイルで武装したこの飛行機は、飛行と維持の両面で悪夢のような能力を証明しました。

 エジプト、イラク、シリアの空軍はイスラエルの「F-4E "ファントムII" 」への対応ができない状態であり、F-4Eの性能に対抗できる新しい戦闘機を入手しようと熱望していたが、彼らはその新しい機体(「MiG-23MS」)に決して感銘を受けることは無かったようです。

 1970年代にリビアが大量の兵器を探し求めたとき、ソ連はすぐにリビアへ「MiG-23MS」を提供した。しかし、ソ連が「MiG-23MS」の引渡しとイラク人パイロットへ訓練したときとは逆に、リビアでは同型機を極度に飛行させる代わりに大部分の時間を地上で過ごすことになり、結果的にソ連は「F-4 "ファントム"」だけではなく「F-14 "トムキャット"」の的として同機を販売したことになった(注:MiG-23MSが単なる良い的となったということ)。

 LAAF(リビア空軍)は約束された能力と現実との間のギャップに怒り、「MiG-23MS」を運用している飛行隊の戦闘能力を向上させるためにかなりの時間と資源を投入しました。

 「MiG-23MS」の供与はリビアがソ連との関係を断った理由の1つでした。それほどの酷い記録があるにもかかわらず、同型機をスーダン空軍に再導入するための論争が依然として続いています。
 
 スーダンは南部に存在する大規模な石油備蓄の産物を享受していたために、2011年に南スーダンの分離独立後に主要な収入手段を失った。これは、スーダンが軍隊に資金を費やすことがより少なくなったことを意味するだけではなく、スーダンが現時点で石油と引き換えに武器を購入することができないことも意味しています。

 目に見える財政面での大幅な増加はありませんが、SuAFは近い将来に今より現代的な戦闘機を入手するための十分な資金を蓄えることはできないだろうことから、既に入手したもので頑張り続けなければなりません。

 こうした状況もあって、スーダンは(より一般的には「サファット・アヴィエーション グループ」の一部である「サファット・アヴィエーション・コンプレックス」と呼ばれる)「サファット・メンテナンスセンター」の設立によって、航空機やヘリコプターの整備を現地で行うことができるようになりました。

 これらのプロジェクトのほとんどが外国人技術者と支援を受けて行われており、オーバーホールのためにこれらの航空機をウクライナやベラルーシまたはロシアに移送するよりもかなり安価に済むメリットがあります。

 このことは、スーダンが国外のメンテナンスセンターと往復させるための輸送にかかる費用のために苦労する価値が無いと思われる航空機を自身でオーバーホールすることができることを意味しているとも言えるかもしれません。


 この点を考慮に入れ、SuAFは以前に保管状態にあった数種類の航空機のオーバーホールを検討し始めました。

 かつて残りの生涯を地上で過ごすものと思われていた「MiG-23」は、何十年もの保管状態にあった後に広範囲に及ぶ大規模整備を受けました。

 (先述のとおりリビアが運用を担当していたおかげで)スーダンが真に「MiG-23MS」を運用・維持したことが皆無であったことから、サファットは同型機を自身でオーバーホールする技術的専門知識が不足していたため、海外からの支援を探すことを余儀なくされました。

 幸いなことに、そのパートナーは隣接するエチオピアで見つかった。同国の「デジェン航空産業」は必要なメンテナンスを実行できることが実証されていたからです。

 (以前はDAVEC、デジェン・アヴィエーション・エンジニアリング・コンプレックスとして知られていた)デジェンは、エチオピア空軍で運用されている幅広い種類の航空機のオーバーホールを担当しており、「Su-27」をオーバーホールする十分な能力がある数少ないメンテナンスセンターの1つとして知られています。

 いまだにDAVECとも呼ばれるデジェンは、もともとエチオピアがソ連製航空機(主に「MiG-23BN」/ML/UB)を現地で維持することを目的に設立されたため、この種の航空機のオーバーホールに関して豊富な経験を持っています。

 4機の「MiG-23」のうちの1機のツマンスキー 「R-29」エンジンがサファットで整備されており、これは下の画像で見ることができます。


 航空機のオーバーホールを目的としてデジェンから少なくとも10人のエチオピア人がサファットに派遣され、エチオピアは新しく再生された機体の飛行試験のためにパイロットも提供したようです。

 エチオピアの存在は「MiG-23MS」を稼動状態に戻す際に大きな役割を果たしたことを強調しました。さらに、現時点においてスーダンは「MiG-23」の飛行訓練をしていないと考えられていることから、エチオピアは予備部品(既に搭載されている新しい操縦席のキャノピーなど)の提供のみならず訓練も支援する可能性が高いと思われます。



 スーダンにおける「MiG-23MS」の兵装は、数種類の無誘導爆弾と57mmロケット弾用の「UB-16」および「UB-32」ロケット弾ポッドに限られています。
 
 かつてのSuAFは「MiG-21M」用の「R-3S」空対空ミサイルを保有していましたが、これらのミサイルがまだ残存している可能性は低いでしょう。理論的に考えるならば、リビアがスーダンへ航空機を供与した際にリビアのストックから「R-3S」空対空ミサイルも引き渡されたかもしれませんが、同ミサイルの保存期限は既に数十年前に切れているのです。

 したがって、スーダンの「MiG-23MS」の役割は戦闘爆撃機(注:事実上の攻撃機)に限られています。同型機による爆弾やロケット弾の投射については、(無誘導のために)遠方の標的に対しては命中精度が無限りなく低いものの、数十年にわたる紛争の間に精度の欠如がSuAFに問題を問題を引き起こしたことはありませんでした。

 不幸なことに、SuAFのためにオーバーホールされた「MiG-23」の4機のうちの1機が試験飛行の直後、ワディ・セイドナに不時着したことが確認されました。この機体は炎上し、後に基地の隅に放棄されたことが衛星画像でもはっきりと視認できます。つまり、再就役に入る以前にSuAFは既に「MiG-23」を1機失っていたわけです

 この損失機がUBかMSかどうかは不明のままですが、唯一の「MiG-23UB」を失ったとなると、SuAFは海外から別の機体を購入することを余儀なくされ、このプロジェクトは大幅に高額なものになってしまうでしょう(注:訓練機を失ったため)。


 オーバーホールのおかげでSuAFにわずかな費用で4機の「MiG-23MS」が提供されましたが、この機体の面倒な性質は本当にそれだけ努力する価値があるのかという疑問を提起します。

 すでに事故で1機が失われており、この非常に面倒な航空機を飛行する際により多くの機体が失われる可能性が高いため、「MiG-23MS」のスーダンにおける2回目の生涯は短期間で終わるかもしれません。

 編訳者追記:この後、(後で緊張は緩和したとはいえ)スーダンとエチオピア間の関係悪化に伴いオーバーホールの結果については2023年2月28日時点でも判明していません。衛星画像や各種オープンソースをチェックしても「MiG-23MS」がワディ・セイドナを含むスーダン空軍の基地に登場した様子ま全く確認されていないため、このオーバーホール自体が失敗に終わったか、成功しても軍で運用する方針になかったか変更された可能性が示唆されています(実際、「MiG-23MS」のオーバーホールより相当前に中国から「K-8」訓練機を導入しただけでなく、この記事が執筆された2016年11月には「FTC-2000S」も発注・納入済みであるため)。

   を翻訳したものです。当記事は意訳などにより、本来のものと意味や言い回しが異なる 
   箇所があります。   

2017年6月30日金曜日

再武装が進むシリア軍:ロシアが供与したBMP-2と2S9が到着した


著:シュタイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

 今年初めにT-62MBMP-1をシリア軍に初めて引き渡した後にシリアから出てきた新たな画像は、より多くの種類のAFVが最近になってロシアの「シリア急行」に積載されてシリアへ送られたことを明らかにしました。今ではこれらの新たな供与は、ホムス東部でシリア軍のイスラミック・ステート(IS)に対する大躍進をもたらしています。新たに引き渡されたAFVはISへの反撃のために最終的に同地に配備される可能性が高いでしょう。

 大量の武器や車両の引渡しは、現在シリア各地で活動している多くの民兵組織のいくつかを編入した統一軍を創設する計画を含むシリア軍(SAA:Syrian Arab Army)の事実上の再建の一環です。このプロセスを背後で支える原動力は新たに設立された第5軍団であり、同軍団は過去6年の間にSAAの役割を奪ってきた、前述の民兵組織の増大する力に対抗する役割を果たします。

 SAAの復権におけるロシアの役割に従って、この新生の軍隊への訓練と装備を担当するのもまたロシアです。これによって、シリアはすぐに追加のT-72T-90、さらにはBMP-3でさえ受け取るものと思わせましたが(これらの全てが現時点におけるSAAの機甲戦力を構成するAFVより高度なものです)、今までの供与ではそのほとんどがロシア軍で既に運用されていない、もはや必要とされていない旧式の兵器でした。

 それにもかかわらず、これらの供与された車両と兵器の多くは、シリアの一部を支配するべく戦う多数の勢力に対する今日の作戦行動においてSAAにとって理想的に適合しています。小火器や大量のウラルGAZKamAZUAZのトラックとジープの供与に加えて、今までのところ、T-62MとBMP-1(P)、 M-1938(M-30)122mm榴弾砲がもたらされており、現在ではBMP-2歩兵戦闘車と2S9 120mm自走迫撃砲も加わりました。

 第5軍団に対する以前の供与では、BMP-1や第二次世界大戦時のM-30 122mm榴弾砲のような高度ではない装備だったことから、BMP-2と2S9といった装備の供与は関心を引きます。より高度な装備がシリアに到着しているという最近の事実は、ロシアが再軍備計画を成功と判断している証拠かもしれません。また、内戦がシリア政府に有利に展開し続けるにつれて、より高度な装備の供与を潜在的に強化する可能性もあるでしょう。


 内戦の画像や映像においてBMP-2の存在が相対的に稀にもかかわらず、シリアの戦場では間違いなく見知らぬAFVではありません。実際、シリアは80年代後半に導入した約100台にわたるBMP-2の残存車両を継続して運用しており、そのほとんどがダマスカス周辺で作戦を展開する共和国防衛隊に配備されています。

 1980年代から既に運用中のBMP-2に加え、タドムル近郊の作戦に参加するため、2015年に少数のBMP-2がT-72BとBMP-1と共にロシアから供与されました。これらのBMP-2のうち少なくとも1台、おそらくは2台がその後にタドムル付近で破壊されたようです。

 現在供与されている車両は、ダークグリーンの迷彩塗装によって既にシリアで運用されているBMP-2(注:デザートイエロー色)と簡単に識別することができますが、何よりもBMP-2 1984年型とそれ以降の派生型のみに存在する、砲塔に装備された対放射線防護用装甲がある点で可能です。シリアが80年代後半に受領したBMP-2は旧式の1980年型であり、そのような対放射線防護用装甲および他の漸進的な改良が欠けています。

 BMP-2は、1970年代に導入されて以来、SAAの主力IFVとして役立ってきたBMP-1の能力を大幅に向上させたものです。本来、ヨーロッパの平野で使用するために設計されたBMP-1の武装は、歩兵を支援するためには不十分であることだけでなく、重装甲のAFVを相手にする能力がないことがすぐにわかりました。さらに、BMP-1の薄い装甲や主砲が仰角をとれない点と移動中に正確に発射できない点が、同車を今日の紛争での使用においては痛ましいほど時代遅れなものにしています。

 BMP-1から学んだ教訓の多くを取り入れて、BMP-2はこれらの深刻な欠点のいくつかを取り除きました。最も明白なのは、2A28 73mm低圧砲を歩兵の支援と仰角を高くとることができるおかげで高所にある敵の位置を抑えることに非常に適した、速射可能な 2A42 30mm機関砲へ交換した点です。BMP-2には、BMP-1の扱いにくく、使用されることがほとんどなかった9M14 マリュートカとは対照的に、9M113コンクールス対戦車ミサイル(ATGM)の発射機が装備されています。


 2S9の供与も、以前にこの車両が、今まで自走迫撃砲を運用していなかったSAAに就役したことが無かったために注目に値します。2S9は、通常の砲弾では約8キロメートルの距離を、ロケット補助推進弾では12キロ以上の距離に砲弾を投射することができる後装式の2A60 120mm迫撃砲を装備しています。この自走砲のために誘導砲弾も開発されたものの、シリアに配備されている可能性は低いでしょう。

 SAAは砲撃支援のために数種類の牽引式野戦砲に加えて、2S1 122mm自走榴弾砲とBM-21 122mmMRLを大量に運用し続けていますが、2S9は仰角を高くとることができるため、現時点で政権軍がホムス東部で直面している山や尾根で防備を固めるISの陣地への攻撃には最適です。

 すぐに2S9が空中投下可能だということに気付く人もいるでしょうが、このような方法でデリゾールに送られる可能性はほとんどありません。2S9がSAAで運用に入るその種(自走迫撃砲)の最初のタイプであるため、おそらく乗員は最初にこの車両で訓練しなければならないでしょう。(注:完熟訓練)。もちろん、BMP-2も同様といえます(より少ない訓練で済むでしょうが)。結果として、彼らが最前線に姿を見せるまでにはある程度時間がかかるかもしれません。

 現在、政府軍が主にISに対して大躍進しているため、ロシアはシリア政府への支援を熱心に維持し続けると思われ、これまでに果てしなく続くように思われた紛争の中で投資をさらに強化していくでしょう。シリアにとって、これらの車両が現実に供与されることはそれが意味する傾向よりもはるかに重要の度合いが低い可能性があります(注:たとえ何であろうとロシアがシリアを支援することを意味しているため、その「流れ」はこうしたAFVの供与自体よりもさらに重要ということ)。

 基本的にSAAのストックを無限に補給することができ、経済的苦難にもかかわらず、SAAをまとまりのある軍隊としての回帰をもたらすため必要とされる金額を支払う意思がある同盟国のおかげで、SAAの最終的な勝利は将来の紛争の推移において全く予期しない紆余曲折をはばむものと思われます。  

 いかなる場合でも、現在の情勢の進展はシリアで争っている軍隊や勢力の間に戦略的均衡に作用することが確実であり、シリア内戦の最終的な結果に広範囲にわたって影響をもたらす可能性があるのです。

特別協力: Wael Al Hussaini(注:元記事への協力であり、本件編訳とは無関係です)。

 ※ この翻訳元の記事は、2017年6月15日に投稿されたものです。
   当記事は意訳などにより、本来のものと意味や言い回しが異なる箇所があります。  
       正確な表現などについては、元記事をご一読願います。  

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2017年6月16日金曜日

プローブ アンド ドローグ:失敗したリビアの空中給油システム導入計画







著:ステイン・ミッツアーとヨースト・オリーマンズ(編訳:Tarao Goo)

リビアの空中給油システム導入計画は80年代後半にスタートして以来(関連する動きが)ほとんど伝えられていませんが、最終的に計画の放棄に至らせた数多くの挫折に悩まされていたようです。
それにもかかわらず、この野心的な計画は確実にその痕跡をリビア空軍に残しており、かつてこの計画で重要な役割を果たしていた機体は、現在の国内における治安状況がますます悪化している状況の中でも依然として飛行を続けています。

旧LAAF(リビア・アラブ空軍)は、5年以上前(注:2021年現在)から2つの空軍に分離して、それぞれがさまざまな種類の戦闘機やヘリコプターを運用しています。
統一政府がリビアの新政府として役割を果たすことになっていますが、国内の分裂はいくらかの勢力によって実質的に継続しています。ファイズ・サラージ(注:2021年現在はモハンマド・アル・メンフィ大統領)が率いる、トルコとカタールが支援している国際的に承認された国民合意政府(GNA)と、エジプト、ヨルダン、ロシア、アラブ首長国連邦から多大な支援を受けているハリーファ・ハフタル率いるリビア国民軍(LNA)リビアでは最強の勢力です。


両者は主に「イスラム国」などのイスラム過激派との戦いに目を向けていますが、双方の間での攻撃や空爆は増加し続けています。
これはムアンマル・カダフィ体制の崩壊後の混乱がもたらた不幸な結果です。これを引き起こした主な原因としては、リビアの各勢力の権力欲、リビアを不安定にしようとする国による外部からの影響...そして、カダフィ大佐の失脚には大きな役割を果たしたものの、リビアが機能する民主主義国家として発展を手助けするために不十分な支援しかしてこなかった国際的パートナーの役割不足が挙げられます。

限られた数の運用可能な機体を2つの空軍で分け合っているため、GNAとLNAの両方は比較的少ない労力で運用可能にできる機体や共食い整備に使用できる機体を分裂した国内で探し回りました。
以前に最後を迎える安息の地を見つけたと思われた航空機は、今では運用可能な状態に修復されて再利用されている場合が多く見受けられます。
リビアの大部分の空軍基地での機密装備の撮影に関する規則が緩いたためか、これらの機体の画像が定期的に流出しています。この特異な状況は、これまで多くの人に知られていなかったリビアの失敗した空中給油システムの導入計画を再検討するための理想的な映像をもたらしています。




リビアの広大な面積が、頻繁な着陸や目標に近い空軍基地に前進配備することなく、作戦機を長距離飛行させて目標に到達させることを可能にする空中給油機を貴重な資産にしました。カダフィ時代には、チャドやウガンダに展開しているリビア軍を支援するためか単なる報復として、リビア機がチャド、スーダン、さらにはタンザニアの目標を頻繁に攻撃していたため、その価値は特に真実性を帯びていたのです。

チャドにおけるリビアの暗闘は、チャド軍のみならず同国内の代理勢力やリビアと戦うイッセン・ハブレを支援するために展開したフランス軍と対峙したリビア空軍にとって決定的な時期とみることができます。
リビアの空軍基地はその大多数が北部に位置していたため、LAAFはリビア南部の人里離れた場所やチャド北部にさえも作戦機を前進配置させていました。
しかし、後にこの両方の場所がフランス空軍による空爆とチャド軍による地上からの襲撃に対して極端に脆弱だということが判明し、後者はチャド内のワディ・ドゥーン空軍基地を攻略したうえにリビア南部にあるメーテン・アル・スッラ基地を奇襲してリビア側に深刻な損失を与えました。

チャドで得た経験と世界的な流れへの関心が、リビアが空中給油機の導入を決定する決め手となった可能性があります(注:他国が空中給油機を使用し始めたことを見て、リビアも導入するという着想を得た可能性があるということ)。
1980年代半ばにはソ連のIL-78がすでに生産されていましたが、リビアはそれを導入する代わりに(イラクと同様に)空中給油計画の立ち上げに関する支援を受けるために欧米へ目を向けました。
この決定の理由は不明のままですが、単に当時のリビアにはIL-78の購入が(ソ連から)認められていなかったか、改修なしにこのソ連製空中給油機から給油を受けることができる航空機を運用していなかった可能性があります。



















1987年、リビアは自身の空中給油システムの導入計画を立ち上げるために、西ドイツ「インテック・テクニカル・トレード・ウント・ロジスティック(ITTL)」社と契約しました。[1] 
リビアは西側諸国の前に立ちはだかる宿敵であるにもかかわらず、軍事関連を含めたあらゆる種類の取引では西側の企業と契約することを問題にしませんでした。関連機器を送り出す西側の企業も、リビアの石油資源から利益を得ることに意欲的であったため、リビアのために働くことに問題はありませんでした。
興味深いことに、ITTLは独自の空中給油(IFR)用プローブの設計に引加えてフランスからIFR(空中給油)プローブを入手することを始め、後にそれらは少なくとも3機のMiG-23BNと1機のMiG-23UBに搭載されました。

MiG-23MSでの過酷な経験があったうえにMiG-23BNでまた同様の問題に直面しているにもかかわらず、MiG-23BNは頑丈さと兵装のペイロードのおかげでリビアでは貴重な戦力となりました。(注:MiG-23MSは質や能力が低くい上に飛行が難しかったため、結果として多くの機体やパイロットが失われました。LAAFにとってはこの事態はまさに悪夢そのものだったのです)。そのため、戦闘行動半径を拡大するためにIFR用のプローブを特別にMiG-23BN飛行隊に装備させるという決定がなされたことは当然のことでした。
MiG-23BNにIFR用プローブを追加することに加えて、LAAFはフランスから導入した16機のミラージュF.1AD(の残存機)も頼りにすることができました。このミラージュは間違いなくリビアが保有する戦闘機のなかで最も高性能な機体であり、既に空中給油能力が付与されていたのです。

同時に2機の航空機へ給油することを可能にするため、ITTLはLAAFが保有する1機のC-130の両翼の下に空中給油ポッドを搭載することによって、同機を空中給油機に改修する作業を進めたようです。
残念なことに、空中給油の際にMiG-23がC-130の比較的遅い飛行速度に適応することができなかったため、C-130がこの任務に不向きであることが判明しました。
ミラージュF.1ADはC-130からの空中給油が可能でしたが、この時点で、リビアはすでにより適した空中給油プラットフォームを自国で運用していることに気づきました...IL-76です。

そのため、(事実上LAAFの一部である)リビア・アラブ・エア・カーゴ(LIBAC)のIl-76TD「5A-DNP」はITTLの技術者によって空中給油機に改造されました。
彼らの尽力にもかかわらず、西側でこの件が公に知られた際に、ITTLはリビアでの作業の打ち切りを余儀なくされました。
彼らの撤退はこの野心的な計画の終わりを最終的に告げた一方で、リビアは自身でこの計画を数年間は継続させたようです。結局は1990年代半ばにこれに関する全ての取り組みが終了したと考えられています。
興味深いことに、この計画の様子はフィルムに記録されており、オンラインで視聴することができます


ITTLがリビアの空中給油システム導入計画の作業を開始したのと同時期に、リビアはTu-22飛行隊を最大で36機のSu-24MKとそれを支援する6機のIL-78空中給油機へ更新するためにソ連と交渉に入りました。
このSu-24とIL-78の組み合わせはLAAFの長距離打撃能力としての機能を果たし、これまでこの任務で使用していたTu-22爆撃機を置き換えるものでした。
Tu-22はアル・ジュフラにある基地から長距離を飛行することができましたが、80年代後半には運用寿命が終わりに近づいたために、これらを更新する必要があったのです。

Su-24MKは、Tu-22に欠けていた精密打撃を可能にする多様な空対地ミサイルと誘導爆弾を装備することができました。
実際、リビアのTu-22がタンザニアの標的に対する爆撃ソーティを実施した際、乗員は標的を外しただけでなくそれがある国自体も外し、爆弾が国境を越えてブルンジに着弾したということがあったのです!(注:それくらい精密打撃能力などが欠如していたということ)[2]

リビアにとって不幸だったのは、支払いに関する意見の不一致と1992年から発動された国連の武器禁輸措置がLAAFに希望する量の航空機を受け取ることを妨げ、最終的には6機のSu-24MKと1機のIL-78だけがリビアにたどり着いたことです。(注:Su-24MKの代金について、ソ連はリビアに事前に50%の支払いを求めていましたが、リビアはそれを拒否したために取引は合意に達しなかったのです

1989年か1990年の運用開始以来、この唯一のIL-78が空中給油の任務に使用されたのかは不明のままですが、生涯のほとんどを貨物機として過ごしてきたにもかかわらず、依然として3基のUPAZ空中給油ポッドが装備されていることは確実です。
民間のジャマーヒリーヤ・エア・トランスポート(リビアン・エア・カーゴ)のロゴを付けたこのIL-78は2004年と2005年にかけてロシアのスタラヤ・ルーサの123ARZ修理工場で修理された後、2005年4月初めにモスクワにあるシェレメーチエヴォ国際空港(IAP)に着陸する姿が初めて目撃されました。




その生涯を通してほんの僅かしか目撃されていないこの飛行機は、リビア革命の終結後にはさらに見つけることが困難となってしまいました。
アル・ジュフラ基地に駐機されたままだったリビア唯一のIl-78について、2015年後半にミスラタ空軍基地に再び姿を現した際にこの不運な機体がミスラタを拠点とする空軍に再就役したことが確認される前には、既に現役を退いたものと考えられていました。

IL-78はその存在理由である高度な能力を出さないまま、貨物機としてその残された短い生涯を送り続けています。
新しい運用者に従って、英語とアラビア語で描かれたカダフィ時代のジャマーヒリーヤの文字が塗りつぶされ、新しいリビアの国旗がジャマーヒリーヤ・グリーン(カダフィ時代のリビアを象徴する緑色)の上に描かれました。
機種の窓には酷使された跡がありますが、正面の風防は交換されているようです(注:機首側面や下部の航法士席窓が劣化や損傷により透明度を失っています)。




リビア内戦で見える絶え間ない戦闘が続くにつれて、リビアとその資源を支配するべく争っている各勢力の武装を強化するために(今は使用されていない)軍事装備が運用可能な状態に戻されています。 
多国間にわたる作戦飛行を行う能力があるプロフェッショナルな空軍を支援することに特化した空中給油機部隊の夢は遠い昔に記憶から消えてしまっていますが、リビアの空にはまだこの機体のエンジンの残響がこだまし続いています。
この計画で重要な役割を果たした機体は、戦争の弱まることのない要求によって徐々に消耗されていくでしょう。





















[1] Libya’s Peculiar, Aerial-Refueling MiG-23s https://warisboring.com/libyas-peculiar-aerial-refueling-mig-23s/
[2] African MiGs Volume 2: Madagascar to Zimbabwe http://www.harpia-publishing.com/galleries/AfrM2/index.html


特別協力:トム・クーパー from ACIG (注:翻訳記事では協力を受けていません)
リビア空軍の詳細については、Helion & Company社の素晴らしいLibyan Air Warsシリーズをぜひご覧ください。

 ※ この翻訳元の記事は、2017年6月3日に投稿されたものです。
   当記事は意訳などにより、本来のものと意味や言い回しが異なる箇所があります。
   正確な表現などについては、元記事をご一読願います。